184回目の更新です。先週と今週、連続して3連休なんですね。有効に時を使うことこそ素晴らしき経験となります。
米沢市は平和そのものでした。今もなお城下町の風情が残り、各所に寺社が多く点在していました。初めて訪れた町は私を歓迎してくれました。
喜多方市より難所「大峠」を越す国道121号線は、喜多方市は大雨でした。峠を越すと
山形県は雨は降ってなく薄曇りのお天気でした。
雨ですとなかなか撮影に苦労しますので、とても嬉しかったです^^
さて今日のブログと次回、二度に続きこの山形県米沢市の紀行文を載せたいと思いま
す。その後は上山市(かみのやまし)も取材してきましたので、それも後日ご紹介いたし
ましょう。
さて山形県は "村山" "庄内" "最上" そして米沢市がある "置賜" 地方と4つに分かれて
います。
福島県の場合 "浜通り" "中通り" " 会津" というように、おおよその全国都道府県は
こうして大別されていまして、静岡県でしたら、東部・中部・西部に分けて地理的な
感覚でその中の市町村を分かりやすくしています。
この城下町は今やアメリカでも知られる知的要素を潜在的に持っている町だった
鎌倉時代より栄えていて、戦国の世では伊達正宗や前田慶次を排出した。
もちろん上杉家を忘れてはならない。
この紀行の詳細は、次回のブログで紹介することとしよう。
さてこの米沢市は、何と言っても「米沢牛」で全国に名を馳せている。
ブランド牛は実は全国各地にある。
神戸牛・飛騨牛・会津牛・近江牛などなど数え上げたらキリがないが、私個人の
好みを申し上げれば、やはり神戸牛と米沢牛となってしまう。
数年前、私は神戸の隣の西宮市で神戸牛を食した経験があるが、その店のシェフが
私の目の前でサイコロ状にカットして鉄板で焼いてくれた。
味付けは塩・コショウのみ。それ以外一切の調味料はなかった。
ところがこれが抜群の旨さであったのだ。
甘みやとろけるような食感は、まさしく神戸牛のブランドの名に恥じないものであった
のは確かであった。
米沢牛も黒牛であり、その味わいはとても素晴らしいものであろう。
私はまだここ米沢の牛肉を食べていない。だがこの誕生秘話を聞いたときに「なるほ
ど、だがら名高いブランド牛になったんだ」と思わずにいられなくなるのだ。
米沢牛のルーツを申し上げよう。
チャールズ・ヘンリー・ダラスというアメリカ人は、上杉鷹山が開校した興譲館に英語
教師として招かれたのだが、当時の米沢の人々はその「四つ足」の動物を食べる慣習は
なかった。だが彼はあまりにも故郷を懐かしむあまりに料理人の万吉を呼んだのだ。
ホームシックになっているチャールズに万吉は牛を食べさせたのだった。
そしてその任期が終わったチャールズは、1頭の牛を横浜に連れて帰ったのである。
これが全国に広まった経緯である。
上杉鷹山がもし学校を建てていなかったら、きっとこういう結果にはならなかっただろ
う。歴史を学ぶというのは、そうした楽しみと人の行いの重みを知る学問なのである。
続く…
さて東日本大震災は福島県の都路地区に大打撃を食らわせました。
この町にも黒牛を育て「都路牛」としてのブランドが確立していました。
原発事故の影響で、ほぼ壊滅状態になってしまいました。
牛に食べさせる牧草が放射能によって駄目になったからです。
しかし畜産農家の人たちは、避難先から帰還後に牛に食べさせる飼料を他県から買い求
めて黒牛たちを育て上げたのです。
私は総務省の復興支援員の時に、その畜産農家の苦労したお話を伺ったのです。
どうか読者のみなさん、今や福島県の食材は徹底した安全検査と管理のもとでしっかり
とした安心できるものとなっています。
ブランド食材だけでなく、こうして作物や畜産で大苦労して頑張っていらっしゃる方々
の食品にも目を向けてください。
私は近日中には、以前復興のお手伝いをさせていただきました場所へと行ってみたいと
思います。その後どうなったかを知りたいために…。
さて今日の最後の締めくくりとして、私の大好きなコスモスのポートレートをご紹介し
て、次回へと米沢の紀行を繋げます。
それでは次の更新まで ごきけんよう メイ♪