mei_megumi’s blog

私の世界観、スローライフの薦め

83回目の更新です。千利休の思いは果たして伝わっていたのでしょうか…?

絶対に教科書には載せられない歴史の舞台裏  その②

 

室町時代に、茶道家として世に名を知らしめた『千利休

彼は、そこらへんにある木々の枝や土を大変上手に使いこなし、やがては

『茶室』を造りました。

既に『書院造り』は定着していましたが、千利休はその豪華ともいえる

インテリア(現代風に言ってます)を、自然の素材で造り上げたのでした。

これを『数寄屋(すけや)造り』と言います。

 

千利休は、その自然界のものを巧みに使うことによって、彼独特の哲学を

生み出しました。

そこには『宇宙間』を醸し出していたのです。

それを彼は『景色』と呼んでいます。

 

その素朴で質素な佇まいこそ、人の欲望や邪念などない優れた清らかな心の

在り方を模索したのです。

それを『詫び、錆び』と表現しています。

 

世界の人々が驚愕したのは、その日本人の原点ともいえる『侘び、錆び』の文化です。

現代の私たちにも、そうした感性は残っていますよね。

自然界と共に共栄共存していく、その心は千利休の想いと同じあると。

 

ところがその彼の想いは、突如として消えていきました。

『茶室』が戦国武将の密談会議の場所として利用されたのです。

 

このことは千利休はどう思っていたのでしょうか。

彼の言うところの『自然との共有』は、戦勝という人間の欲に摩り替わっていました。

 

茶室には「地窓」といって、わずか90~120cmの高さの出入り口しかありませんでし

た。尺貫法でいうと、3尺から、大きくても4尺5寸(1.365cm)と聞いています。

この高さは武士の腰につけている刀が、あまりにも低い高さのために、サヤごと腰から

取り外さなければ、その部屋(茶室)に入れないという計算がありました。

だから、不意打ちを喰らうことはなかったのですね。

 

その茶室の様子を、下手な絵画ですが下のように描いてみました。

 

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千利休は、全てのものに『景色』命名しています。

例えば、障子に映る外の影、床の間に飾る季節ごとの掛け軸や、生け花

そして客人に渡す季節を感じさせる和菓子も、しかり。

茶室は冒頭でも申し上げました通り、自然素材の木材や土を利用しています。

彼はそうした自分の世界観を作り出しましたが、戦争の戦略会議の場所に

なるとは…。

 

私は鎌倉の小町通りの一番奥で、表千家の茶道を習った経験があります。

千利休の数寄屋造りに非常に興味をもっていた頃で、いずれは茶室を造りたいと

いうクライアントと巡り会った時に、生かそうとしていたのですね。

 

その茶道の全国大会が、東京の根津美術館内の、茶室を設ける庭園で催しされました。

もちろん私も参加しましたが、正直申し上げまして落胆いたしました。

なんと着飾っている方々か多いのか…。

そして自分の持っているナツメ(お茶を入れる小さな入れ物)、着物、帯、その他…。

自慢し合っているその姿を目の当たりにしました。

 

千利休の誠の茶道とは、まったく違うものでした。

彼の唱えた『小さな部屋であるが、ここには無限の宇宙観がある』という哲学は、

こうして戦国時代から現代、間違った方向へと進んでしまいました。

 

確かに茶道や花道で学ぶ、日本人独特の『作法』は素晴らしき伝授です。

世界に誇る日本の美徳です。

 

しかし、本当に千利休の思想は受け継がれているのでしょうか…。

私は茶室を実際に設計し、十数棟の作品を手がけましたが、それは彼の思いをただ

受け継いだのにすぎません。

 

人は常に『この世は変化している。例え自分が最初であったとしても、いつかはそれ

を超越する出来事が必ずくる』ということを自覚することです。

 

千利休は、こうして外の世界にある素材を使って、部屋という囲まれた空間を造りまし

たが、彼の本当の心、すなわち内面の世界は、何事にも微動だに動かない宇宙空間を

造りあげようとしていたのかもしれません。

 

それでは次の更新まで ごきげんよう  メイ